ワクチンや抗ウイルス薬の主要な標的であるSARS-CoV-2スパイク(S)タンパク質について、2つの分子動力学(MD)シミュレーション研究から得られた知見を紹介します。本研究は、Sタンパク質の構造的柔軟性、不活性な「Down」状態と活性な「Up」状態間の遷移を支配するメカニズム、そして治療介入への示唆について、原子レベルでの理解を提供するものです。
主な結論は以下の通りです:
固有の柔軟性と複数の立体配座(コンフォメーション): Sタンパク質は本質的に動的であり、リガンドを必要とせずに複数の立体配座間を自発的に遷移します。拡張サンプリング(Enhanced sampling)シミュレーションにより、既知の「Down」状態や「one-Up」状態だけでなく、これまで隠れていた機能的構造も特定されました。これには、中間状態、受容体結合ドメイン(RBD)が最大限に露出した「one-Open(1UO)」状態、そして「two-Up様(2UL)」構造が含まれます。
「糖鎖によるロック機構(Glycan-Locking Mechanism)」: N結合型糖鎖は、RBDの動きを制御する上で二重の重要な役割を果たしています。特定の糖鎖(特にN165、N234、N343の位置にあるもの)が分子スイッチとして機能し、ある配座を安定化させる一方で、別の配座への遷移を促進します。N343糖鎖はDownからUpへの遷移の開始を助け、N165はDown状態を安定化させる障壁として働き、N234は最終的なUp状態を安定化させます。
多段階の遷移経路: 不活性なDown状態から活性なone-Up状態への遷移は、単純な二状態間のスイッチではありません。少なくとも2つの安定した中間構造を経由して進行します。この経路は、Down状態の柔軟性によって開始され、RBD間の一時的な塩橋形成によって駆動されます。
創薬可能な「クリプティックポケット(隠れたポケット)」の発見: 特定された中間構造では、RBD間の界面に、安定したDown状態やUp状態には存在しない「クリプティックポケット(隠れた薬物結合部位)」が露出することがわかりました。FDA承認薬のバーチャルスクリーニングの結果、抗がん剤ニロチニブを含むいくつかの候補薬が特定されました。これらは、このポケットに結合して中間状態を安定化させ、Sタンパク質が活性型になるのを防ぐ可能性があります。
抗体回避と中和への示唆: 受容体結合モチーフ(RBM)や抗体エピトープのアクセス性は、Sタンパク質の立体配座によって大きく異なります。新たに特定された1UO状態は、ACE2受容体結合のためにRBMを最大限に露出させる一方で、特定のクラスの抗体からはRBMを遮蔽する可能性があり、免疫回避のメカニズムを示唆しています。これらの知見は、抗体がSタンパク質の既存の柔軟な状態を認識するという「コンフォマー選択(conformer selection)」モデルを支持するものです。
Dokainish, H. M., Re, S., Mori, T., Kobayashi, C., Jung, J., Sugita, Y. eLife 11, e75720 (2022). https://doi.org/10.7554/eLife.75720
Mori, T., Jung, J., Kobayashi, C., Dokainish, H. M., Re. S., Sugita, Y. Biophys. J. 120, 1060-1071 (2021). https://doi.org/10.1016/j.bpj.2021.01.012